2010-02-25 第174回国会 衆議院 予算委員会第一分科会 第1号
エジプトの王家の墓は発掘に行き、しかし、日本の古代国家解明と、当時の、倭国と言われた時代の、倭と東アジア情勢などの歴史的解明に貢献できる古墳の学術調査を妨げるというのは、私はやはり考え方としておかしいと思うんですが、官房長官のお考えを伺っておきたいと思います。
エジプトの王家の墓は発掘に行き、しかし、日本の古代国家解明と、当時の、倭国と言われた時代の、倭と東アジア情勢などの歴史的解明に貢献できる古墳の学術調査を妨げるというのは、私はやはり考え方としておかしいと思うんですが、官房長官のお考えを伺っておきたいと思います。
なぜそれが大事かといったら、当時の古代国家成立過程における権力構造を知る手がかりとなり、倭国と東アジアとの交流を読み解くかぎになるんですね。 文化庁に伺っておきます。 文化庁としても、学術調査の申し出を行う、調査を行うという立場に立つことが大事だと思うんですが、どうですか。
かなり古い言葉ですが、隋書の倭国伝という中にも盗賊少なしという表現があると承知しておりまして、当時から日本の国の治安というのは大変すばらしいという評価を受けていたと私は思っております。
これは、私がかつて「倭国と極東のあいだ」という本で書きました周辺国家日本の発想が強くこういう形で出たわけでありまして、この基本的な枠組みは、残念ながら今日もそう変わっておりません。そしてまた、戦争に懲り懲り、国家はすべてあしきものという感覚が経済的な私的利益を追求することを万能とする思想を生み、それが蔓延した時代でもありました。
それからその次は倭国というのが出ますが、これはやがて日本人が気づいてこの倭国はやめにしました、従順という意味になるからですね。これはアイデンティティーをあのころ持っておった、あのころの日本人は。 それで邪馬台国が次に出てきますが、邪馬台国というのは中華思想に基づいて書かれたものですから、よこしまな馬の台の国とこう書いてあるわけなんです。それから卑弥呼というのがそこの女王ですね。
隋書倭国伝に、推古天皇十六年に隋の答礼使として来日したひ裴世清に対して、聖徳太子が、「冀くは、大国維新の化を聞かん」と言われたとありますが、これは太子が隋の統一を模範としてわが国の維新を目ざして国政の改革に当たっておられたことを示すものであります。こうした聖徳太子の新国家建設の成果として、わが国は隋と対等の国交を結ぶことができ、それとともに日本という国号を称し、天皇号を唱えるに至ったのであります。